公園を子どもたちの手に
カテゴリ : お山生活 2019.04.20
子どもの頃のことです。
家の目の前には、市に寄贈された大きな公園がありました。
もちろん遊具もありましたが、土地に起伏があり、大きな池もあり、
松が多かったせいか、少し暗い公園ではありましたが、
子どもの遊び場としては格好の場所で、とにかく想像力を膨らませて、
いくらでも遊びの思いつく公園でした。
おままごとはもちろん、鬼ごっこ、ドロケイ、ブランコ高跳び、
ザリガニ釣り、たくさん落ちてくる松の落ち葉を使って、起伏のある場所で段ボールそり滑り、あるいは松葉でかまくらのような基地を作って松ぼっくり戦争。
木の上に小屋を作ろうとしたり、落とし穴を一日かけて掘って自分たちで落ちて大笑いしたり。
あの頃の遊びは、とにかく自由すぎて、思いつく限りのことを公園でやっていた気がします。
何が言いたいかというと、2つあります。
ひとつは、あの頃の大人たちが、とても寛容であったこと。
ときどき、近所の「カミナリオヤジ」に「こらーーー!」と
怒鳴られたりもしましたが、それでも子供たちは
男の子も女の子も、怪我なんかなんのその。
危ないことも結構経験しながら、何が危なくて何を工夫するとうまくできて、何をやってはいけないのか。
そんなことを自然の中からたくさん学べたのも、両親やご近所の大人たちが
子どもの遊びだからと、見守ってくれていたことが大きかったのではないかと思うのです。
「元気がいいのが子ども」。
周りの人たちがそう思っていてくれたから、やれたことがいっぱいあった気がしています。
もう一つは、やはり公園そのものから学ぶことの多さです。
小さな生き物について学んだり、赤ちゃんが来ている時の遊び方、おじいさんやおばあさんとのおしゃべり。
いろいろ公園から教えてもらうことがたくさんある。
私が子どもの頃にやっていたような、落とし穴つくりをしろとは
もちろん言いません。
あれは、今考えるとよく怒られなかったなと思っています。
でも、ボール遊びもだめ、大きな声もだめ、犬の散歩もだめという
公園を結構みかけます。
先日、友人の息子が木登りをして叱られたそうです。
木登りを怒られるというのは、私はびっくりしています。
木登りぐらい子供たちに許してやってほしい。
公園の使い方として、「人に迷惑をかける行為はやめましょう」という
看板をよく見かけます。その下に禁止事項が書かれている。
迷惑の定義ですが、もちろんボールをバットで打って、実家もガラスを割れれたことがあるので、そういうことは、迷惑行為だと思うのですが、
特に男の子には、走り回ったり探検をしたり、どろんこになったり、
木登りしたり、笑い転げたかと思えば、遊びに度がすぎて時に喧嘩になったりと、そういう場所がこどもには必要なんだと思います。
擦り傷をする、服も顔も手も泥だらけになる、転げまわる、もっと土に触れ草木に触れながらやってはいけないこと、次に気を付けるべきことに自分で考えていく。
どんな植物がかぶれるのか、桑の実やキイチゴの美味しさや、
四葉のクローバー探しに何時間も費やしたり、
シロツメクサのネックレスの作り方や、落ち葉の形、どんぐりの種類に
自分たちで気づく。
アリジゴクが作られる場所や、オタマジャクシを素手で触った時の感触、
そんな感性を磨く場所であってほしい。
こどもだからできることを、できるうちに学べるのが
まちのワークショップではなく、身近にある公園が役立ってほしい。
バーチャルの世界で知識だけつけるのではなく、
実際に公園というフィールドで、もっともっと体感してほしい。
あくまで私の主観ですが、
今の公園にはルールがありすぎる。
どんなに大きくて広くて美しい公園でも、使う目的を失った公園に誰が行くのだろうと。
いつも閑散とした公園を見るたびに、公園づくりの在り方をもう一度考える
転換期なのかもしれないと思うと同時に、大人たちの寛容さがほしいところです。
危機管理能力が高すぎると、すべてはルールとして禁止が増えていく。
日本人の親たちは、子どもが何かをする前に危険を感じて手を出す一方、
欧米では危険性を常に想定しながらも、あえて見守るという子育て方法だと聞きます。
昨日も、仕事仲間たち間で、今の若い男の子が確実に軟弱化してきている
という話題がでました。
「やんちゃ」をすべき時期に、大人たちがもっと挑戦させるという見守りの
姿勢で、子どものうちにできることをたくさんさせてやってほしいと、感じます。
さらに大人でさえ、来る目的がなければ公園には立ち寄らなくなります。
誰も来ない公園は、防犯上もさらによくないでしょう。
ベンチに座る以外やることがない公園ではなく、老若男女気軽に
コミュニケーションが取れるような公園になるためには、
結局のところ、一人一人のモラルがあるかどうかだと思うのですが、
そのモラルがないからと、ルールが増えるというのは、どうなのだろう。
そのモラルをどう回復させていくべきか?という根本的な問題自体を、
どうにかするべきなんだろうと、人が誰もいない広い公園に立ちながら、
そんなことを考えてしまいました。
もちろん、立地や地域にもよるのでしょうが、
公園をこどもたちの手に戻してやり、ゲームではなく
自然の中で転げまわる姿をたくさん見かけたいものです。