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晴(ハレ)と褻(ケ)

カテゴリ : 住む人日記 2017.12.22

秋口、ある窯元さんとの話の中で、「私たちは褻(ケ)の日に使うものを作っているのです」という言葉を聞いた。
晴(ハレ)という言葉に馴染みがあっても、その対義語である褻を語彙としても体験としても知っている若者は、そう多くはないかもしれない。私も仕事で出会った諸先輩方との会話の中で語彙として知り、体験としても捉えるようになっていった。
「晴(はれ)でないこと。おおやけでないこと。ふだん。日常。わたくし。」と辞書にあるとおり、褻こそが毎日なのである。

先日、京都でお会いした料理人さんが小さく呟いていた。
「今の人は鍋やフライパン、器ひとつとっても、道具の基礎と使い方を知らない」と。
この言葉には、煮る炒めるは誰でもコンロに乗せればできるが、その道具の形・素材や、どんな料理に適しているかを知っていたら、その有り難みや、欠点、もう一工夫ある使い方を知れるのに。という想いが込められたいた。

そして今、偶然にも銀座のポーラミュージアムアネックスで12月24日まで「ケの美」展というのが開催されている。ちょうど昨日、銀座での打ち合わせ終わり、足を運んだ。デザイナーの佐藤卓さんが展示ディレクションを手掛け、建築家の隈研吾さんや放送作家の小山薫堂さん、ミナの皆川明さん、料理家の土井善晴さんなど14名の様々な業種の方が、ケの姿や在り方、そこに潜む美について、自身の愛用品と想いを紹介していた。きちんと目の前の日々と物事に向き合わせてくれる、良い展示だった。

この一年、たくさんの点を打つように考え続けていたことが、人、本、展示などとの出会いで、すこしづつ線になっていくのが分かる。私の年齢で偉そうなこと書くわけにはいかないが、時代の流れだから仕方ないというのは、違うと感じている。時代に理由があるのなら、足りない点や誤りは修正するべきだ。

SNSが普及して、誰もがケを見せ、ケをブランディングして利用するのが当たり前になった。それ自体は悪いことではないと思いつつ、ケというものの奥深さに触れる前に、見栄えや承認欲求によりケすらもファッション感覚に消費されるものになりつつあることが、少し寂しい。
だが一方で、ケは、ケの為に作られた様々な道具や考えによって支えられ、人はその体験を糧に成長ていく生き物であることを再発見し、そのことを心底楽しみながら生きていく人も増えている感覚がある。
きっと時代はこれから徐々に二極化していく。

私は、一貫性を持って生きていたいので、後者でありたいと思っている。

 

写真は、我が家の道具のごく一部。

 

住む人編集部