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手仕事とインダストリアルデザイン

カテゴリ : 住む人日記 2018.09.11

長く暑い夏が終わった。
東京も朝晩は涼しく心地よい風が吹いている。
夕食を終えると最近は窓辺の椅子に腰掛けて、以前に読んだ本のページをまたはらりと捲る。
武満徹やイサム・ノグチ、柳宗理のエッセイなどなど、5年経っても手の止まる項はいつも変わらない。

先日、自由学園明日館で開催されていたストッキストでのこと、いつもお世話になっている陶器メーカーさんとデザイナーさんと話をしていると、CAD(キャド)という図面を起こす為のソフトの話になった。これは建築業界やインダストリアルデザイン(工業製品)の現場では欠かせないツールとして広く普及しているもので、大変便利なものである。

だがこの話が盛り上がったのは、「CADをやめた」という一言が始まりだった。結論から言えば便利だからと取り入れようとしたものの、その習得に割く時間を別のことに使ったほうが生産的なのだと言う。いくらパソコンで美しいデザインと図面を起こしても、それを形造る土や木は自然由来の素材。それぞれの癖や特質と様々な外的要因も合わさるので、複雑なズレが生じるのである。その誤差を予めCADの図面にすることは容易ではない。
だから、素材を深く知り、形を探求し手で実際に作る方が良い。量産には最終的に型を作るので図面は必要なのだが、それは最後の最後にあればよいのだと言う。

偶然にも前の晩に読み返していた柳宗理のエッセイに同じことが書かれていた。図面起こしから形成までを一手に担う手仕事から、分業制の工業生産に急速に発展したことでデザイナーは素材ではなく図面と線だけを見てデザインするようになり、製造現場には素材知らずのその図面が届けられた結果、形が成立しない。あるいは非常に詰めの甘いデザインのまま世に出てしまうのだ。結局のところそれは、素材を知らない、手で作ることを知らないので、どう直せばよいか分からないという皮肉的な状況を表している。

このことは、あらゆることに置き換えられるかもしれない。私の生業の写真でも、関わり深い印刷技術でも、デザインだけではない人付き合いも同様だ。対峙する物は、常に生き物である。いくら便利になっても本質は変わらないのだから、実際に触ることや作ること、探求することを疎かにしてはいけない。

変わらないという本質の発見こそが、これからの時代に必要なのかもしれません。みなさんの手にしている物、身の回りにある物は、手と機械をきちんと上手に使えているでしょうか。

 

 

住む人編集部