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京都の路地から

カテゴリ : 住む人日記 2018.06.01

街角には紫陽花が咲き出しました。
2週間のロケを昨夜に終えて、6月最初の朝は京都にいます。
繁華街からそれると路地に良い骨董品店があったり、つい歩き回ってしまう京都。それでふと思い出したことがあります。

先日、ある有名な木工作家さんの展示会に立ち寄りました。
食器や木ベラにスプーンといった道具をはじめ、オブジェなどの作品もたくさん並んでいます。
どれもその作家さんらしいフォルムと佇まいに立派な値段がつけられていて、労力や材料費、そしてなによりも作品の完成度を顧慮しても、それは適正な評価であり、素晴らしいことだ思いました。

けれど少し哀しいと感じたことも。
おおよそ、普通の生活水準で考えればそう簡単には買うことのできないであろう値段の物たちが、いとも簡単に、飛ぶように売れていく。もちろん平日の昼過ぎ、購入していく人たちと言えば想像に難くありません。会場に溢れるのは、ちょっとツンとした空気と、我先にといった雰囲気で取り合うように作品をむさぼる背中からは、じっくり選ぶような感じはありません。

港では作家物ブームが続いている一方で、ただそれがステータスになっているなら、寂しいことです。
以前、こんな話を読んだことがありました。
「アルマーニを着ていることが立派なのではなく、アルマーニを着る意味を理解し自然に着こなせることが立派である」と。「◯◯さんの作品を買っている・持っている私」というのは、一歩引いて考えると思慮深い眼差しが抜け落ちているのかもしれません。

どんな物を、どのように買い、どう使うかは人それぞれの自由であるけれど、物にはそれなりの訳と資質がある。豊かな瞬間は、両者が互いを理解し通じ合い、使い使われることにある。お皿の裏に小さく印が押されているように、誰が作ったか知るのは一番最後でもいい。

すこし立ち止まって、その物に宿る本当の魅力や、名前を伏せたときにどのように見えるのか、冷静に想像することも大切だと、京都の路地で誰の元のも分からぬ器をじっくり眺める人たちを見て、感じたのでした。

 

 

住む人編集部