街と山との間
カテゴリ : お山生活 2017.11.13
生まれも育ちも海のそば。
そんな私が、鎌倉山に拠点を置くようになってからというもの、
どうも山側の生活が馴染む。
さらに山の奥で暮らしたいとさえ、最近はよく思う。
特に鎌倉・逗子・葉山は、海と山に囲まれた町。
山から遠く、海を望める立地も多い。
ビーチフロントに憧れる人も多いだろうが、私はやはり緑に囲まれた中で
暮らすのが好きらしい。
最近、京都と那須に続けて日帰りで行ってきた。
京都では、とあるフィールド授業に参加して吉田山緑地を歩きわまり、
那須では、雑木林に佇む「ちびスケ」第一号を体感してきたのだ。
なぜ人は、緑を眺めているとこんなにも心が落ち着くのだろう。
自然ってやっぱりいい。なんて思うのは誰ものこと。
でも、知っているだろうか?
日本に、猫の額ほどのものは別として、原生林はほとんど残っていない。
もはやほとんどが2次的自然林と呼ばれる、人の手が加えられた自然林だ。
ということは、人の手を加え続けなければならないということ。
山は、使い込んで初めて山になる。
山は、使い込んで初めて森になる。
使わなければ、死んだ山になる。
ということなのだ。
日本の国民は、樹木をこよなく愛していると海外でも思われているし、
当の日本人もそう思っている。
我々は、本来「木族」だと思っている。もちろんこの私も。
しかし、樹木の名前を50以上言えるだろうか?100言える人はどれくらい
いるだろうか?
樹木を大事にしているという国民性のウソは、すでに専門家から言わせると
調査等々でもデータが出ているそうなのだが、
これほど自国の樹木を知らない国民も珍しいというほど、
実は関心のない人が多いのだそうだ。
いわゆる「外から眺めて綺麗なもの」という認識でしかない。
そんな風に言われて、私はハッとなった。
近所には自然が豊かでと言いつつ、
まわりにどんな樹種があって、どんな問題が起きていて、
高木と下草のこと、日射のこと、整備された自然とそうでないもの。
正しい整備の仕方はどうでなんて、
そんな会話を普通にする人が、まわりに存在するだろうか。
数年前まで野草の名前をほとんど言えなかった、自分を含めてだ。
ひとまとめに「雑草」といっていて、ようは関心がなかったのだ。
ただ、緑が多ければ自然があっていいということではないのだ。
山の整備に大事なことは、自分の目線の高さではなく、上の空からの光が
下草まであたり、きちんと陽が入れられているかが
本当に必要なことなのだけれど、
我々は往々にして、樹木がたくさんあれば=自然が豊かと思う節がある。
「おじいさんはしば刈りに」ではないけれど、
昔きちんと森を使っていた時代は、山が綺麗だった。
今は近代化が進み、里山を使うことをしなくなったことは、
山を死なせることにもなるし、野生の動物の行き場も失わせる。
もちろん、大災害も引き起こす。
そんな話を聞いた。
私たちは、「眺めて綺麗」という観点をやめて、使いこなすことが
次の時代に進む上で、大切な暮らし方なのかもしれない。
人が使いやすいように、手を加えてきたのだから、
今更放置は無責任ということなのだ。
環境をどう活かすか、どういう手段で守るか、
ただただ、古木を伐採することがいけないと反対してはいけない。
もちろん簡単に伐採することもしかり。
樹木には寿命があり、時が来たら伐採も大切な見極めでもあるなど、
それは、今山と街の間にいる私たちが、
先人から学び直していくことなのかなと、
私は大真面目に思うようになった。
まずは、建物と自然の繋がりを造り出す植栽の考え方から、
徐々に湘南の環境をどう守り、どう活かすのか。
身近な場所から、何が私にもできるのか。
そんなことを森の中で考えた。