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文字は打つもの、書くもの。

カテゴリ : 住む人日記 2017.06.20

以前、結婚を機に引っ越すにあたり大量の所有品を処分した。大切な思い出も、ガラクタも、今日ばかりはと捨てていく。中でも机の引き出しから発掘された山のような書類やメモなどは見ることもなく躊躇なくゴミ袋に入れていった。その時である、浪人時代に書いて束となった小論文に目が止まった。その下には大学時代に書いたものやメモも一緒に束ねられている。そのどれもが手書きだった。

私が初めてパソコンを持ったのは中学3年の頃だった。それ以来、文字は書くものではなく打つものになった。もちろん授業ではノートを取ったが、それよりもずっと長い時間を文字を打って過ごしてきた。高校でのレポートや大学の卒論はもちろんパソコンだ。社会人になってからはノートの代わりにパソコンを使うことさえあった。

そんな時代に生まれて、70代の担当教官に1万〜2万字の小論文を毎日手書きで、2つ3つと書かされていたのが浪人時代だった。その教官は私に「コピペを防ぐことも重要だが、人が読むと思って丁寧に書くこと。想いを文字に丹精込めて書くこと。ベラベラ喋るよりも大切だ」と言っていた。そして私は字の汚さを怒鳴られ、終盤の集中力を切らした投げやりな字面を見抜かれては窘められた。時には僕の気合の入った文字と言葉を見て喜んでくれたこともあった。

「良い字、良い文だった」と褒められた嬉しさは、今でも忘れられない。文字は書くものだと教えられた19歳の春だった。
久々に見た当時の文字の中に、当時の自分が変わらずにいた。その存在と文字を書くことを忘れ、ケータイ電話やパソコンの画面を食い入るように見つめながら文字を手で打つ自分に少し恥ずかしくなる。

タイプして打つ文字は早くて便利で可読性が高い。とても良いことだ。けれど、「ありがとう」や「ごめんね」をメールではなく書き置きで伝えられたら、画面をスクロールするよりもきっと長くその文字を見つめることだろう。

そのことに、意味があるのだと思う。

 

住む人編集部